なにわ皮ふ科医院 相生町,宇部新川,宇部市 皮膚科,アレルギー科

 

院長コラム

冬の思い出

最初で最後の 冬山登山   
なにわ皮膚科医院 浪花志郎

あと1週間もすれば冬休みとなる専門2年の12月、閑散としたキャンパス内で同級のH君から「登山部と一緒に大山に登ってみんか」との声かけあり二つ返事で「ああ えーよ」。年末の帰省の途中にちょっと遊んでいこう・・・畳の部屋からそのまま登山に直行という無邪気な了解だった。出発の前日に全員打ち合わせと準備に加わって4年生2名の卒業記念登山に専門3年のYさんとH君と自分の5名のパーテイ―とわかった。12月30日夜下関から3段式ベッドの夜行列車に揺られ翌朝米子駅に到着、バスで登山口へそして他に誰もいない雪のキャンプ場へと入山、夕刻に定番のカレー夕食を済ませてさっさと寝袋に潜り込んだ。

翌朝は山時間なので4時頃にテントをたたみいざ出発。リュック重量は20Kg、他の4人は30Kgほどで足元は懐中電灯を頼りに黙々と雪の舞う登山道をたどっていく。2~300mも進むと小雪降りしきる中で汗だらだらそして息ゼ―ゼー、ああ来なきゃよかった・・・前を進むH君に「えらいことないか-?」と尋ねると即返答あり。「このえらいのがいいのだ 一歩一歩かみしめる」・・・うーーん登山部ってのはそんなもんかあ?・・・こっちはやっぱりえらい!

雪は本降りになってくるが周囲が白み始め何となく闇夜の緊張感が薄らいでいく。雪はふぶいたり止んだりめまぐるしく変化する中をどのくらいの時間が経ったのか見当もつかず路が次第に急勾配になっていく。そして木立の雪深い中なぜか斜面を登っていくことに・・・。雪の登山道ってこんなもんなのか・・・?ちらっと?が頭をかすめつつ取り残されないように必死でH君についていく。そのうち雪がひざ丈を超えるようになり かんじきは役立たず下肢を一歩踏み抜くのにかなり時間を取られる深さになった頃突然リーダーが叫んだ「道しるべがなくなっている!」全員雪に埋まった状態の棒立ちでフリーズ。言葉には出ないがどうなるんだろう?まさかこんなところで遭難はなかろうがリーダーの判断は・・・全員無言で待機していた。折よく雪が止んでいたのが幸いしたのか一時して雪深々とした斜面を一歩ずつ進行開始。ようやく細い登山道らしきに出て安堵の足取りとなった。この時リ―ダーが何を根拠に方向を定めたのか気が動転していたせいか聞きそびれてしまって今となっては残念。

登山道は以外にも踏み固められた形跡があり新雪がそれなりに重層。標高1500mを通過したあたりだったろか突然ブリザードもかくありなんかと思わせるような横殴りの風と雪模様に変化。思わず下を向いて一歩ずつ真っ白い足元を靴底の感覚だけを頼りにゆるゆる昇っていく。ピッケルで右側を突くと硬い斜面に当たった感触あり。それでは左側はとグサリと突き刺すとズブズブ・・・ありゃあ底がない!
と言うことは この路はどんな状況なのかあ? 強風で左側に倒れたら斜面を滑落かあ?ぞっとして前方に顔をあげたら確か1m、2m前に赤い服が見えるはずなのに真っ白で何も見えない!(後年ホワイトアウト現象と知ることに)。またぞっとしてさらに足元を一歩ずつ踏み固めて確認できたら次の一歩を・・・どのくらいの時間経過だったのか?ようやく小ぶりから晴れ間に視界がひらけてきて再度の安堵。

たどりつた山頂部は狭くも広くもなく岩やがれきもほどほどでまあこんなものなのかと納得。登頂の目的に達した安堵感に浸ってへたりこみしばし体力回復の癒しの時間だけが経過。中国地方最高峰からの展望は当然360度ぐるりのパノラマ。雲のたなびきで平野部が遮られてうーん絶景かどうか・・・と21歳の自分にはまあ致し方ない感性だった。「バスの時間に間に合わなくなるから・・・」とリーダーの一声で何の未練もなく全員一目散に山頂から駆けるように下っていく。あたかもヒマラヤ山岳で雪ヒョウに追いかけられる鹿のような気分で坂道の段差をぴょんぴょん。
数年後の夏の某日ラジオから大山の沢で死体が発見されたとのニュースを偶然耳にした。それ以来毎年冬季になると“ある種のトラウマ”のように雪の中の登山のことが脳裏に蘇えってくる。あれから半世紀を経た昨今宇部駅の階段を10段以上昇ると下肢が悲鳴を上げてくるのでとほほ。伯耆富士を遠望する折りにはあの日のあの体験が本当に自分にあったことだったのかと時の流れに半信半疑.....。